代表呼掛け人あいさつ
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         高木仁三郎のメッセージ「友へ」

                   代表呼掛け人 伊藤英信
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 7年前「よっかいち九条の会」の代表呼掛け人を引き受けました。私が
小学校年生の時に大東亜戦争が勃発しました。その朝のことを今も生々し
く覚えています。父親と叔父が火鉢を囲んで「とうとうやったな」と語っ
ておりました。
 中学1年生の時、「終戦」を迎えました。その後の1・2年は、食べ物
が無く、ハコベ、フスマも雑炊に入れ食べました。伊勢湾で海水を汲み、
調味料としました。四日市の町は6月18日に空襲にあいました。煙がく
すぶる街を鉄道線に沿って富田まで歩いて通いました。爆弾が日永の変電
所に落ちました。すごい音がしました。戦争が舌に鼻に耳にそして心に、
五感を通じて今も鮮明に蘇ってきます。
 戦争を知識として学ぶことも大切だと思いますが、感じ取ったことを子
孫に残していくべきだと思います。井上ひさし先生が亡くなり、また反戦
・反核の新藤兼人さんが亡くなりました。今日(6/16)、政府が原発の
再稼働を決定しました。戦争とともに原発も大きな私たちの課題だと考え
ます。
 今から20年前に高木仁三郎の講演を聞く機会がありました。2000
年10月8日、62歳で亡くなられた方です。亡くなられる直前に「友へ
」と題したメッセージを残しておられます。挨拶のむすびに代えさせてい
ただきます。
 「原子力時代末期症状による大きな危険と、結局は放射能廃棄物を垂れ
流しになっていくのではないかという危惧の念は、今、先に行ってしまう
人間の心を最も悩ませるものです。後に残る人々が歴史を見通す透徹した
気力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって一刻も早く原子力
の時代にピリオッド打つ、賢明な英知を結集されることを願ってやみませ
ん。私はどこかできっと皆さまの活動を見守っていることでしょう」
 本日は、7周年の記念の集いにご参集をいただき有難うございました。

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             記 念 講 演

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        さようなら原発 さようなら安保
        − 憲法で結ぶフクシマと沖縄 −

                国際平和ミュージアム館長 安斎育郎

 みなさんこんにちは安斎です。お久しぶりです。
四日市はある意味で国の政策の犠牲になったという意味では、二つのこと
を思い出します。昭和17年の4月18日、空母ホーネットからやってき
た爆撃機が、東京・名古屋・大阪そして四日市を攻撃しました。最初の本
土空襲の目標となりました。二つ目は大気汚染公害です。日本の4大公害
の町となりました。公害反対闘争がその後に計画された芦浜原発の建設を
阻止する力となっていきました。大きな教訓として活かされたと思います。
三重県は原発の無い県として今日に至っています。
 現在、原発が54基もありますが、反対運動で阻止したものもいくつか
あります。和歌山県も複数の立地計画がありましたがそれを許しませんで
した。高知県の窪川町でも反対運動が展開されました。山口県の豊北町を
はじめ、鳥取・京都にも原発をくい止めた事例があり、市民の声も決して
小さいものではありません。

1.プロフィール −「皇紀2600年」の生まれです−
 私は1940年(昭和15年)の生まれです。このビルは「じばさん三
重」と呼ぶそうですが、「じいさん、ばあさん」なら通じると思います。
「皇記2600年」の生まれです。9人兄弟の末っ子です。育郎の「育」
の上半分は子どもの子をひっくり返した字です。正常分娩を表わします。
また下の月は肉月です。食べ物の無い時代でしたから、とにかく健康に育
つようにという親の願いが込められています。我が家は長命な家系で、父
は87歳、母は94歳まで生きました。戦争中に病気で3人亡くなりまし
た。男ばかり6人が残りました。そのうちの4人が戦争に行きましたが、
一番上の兄貴は91歳まで生きました。私もあと20年は大丈夫だろうと
思っていますが、最近原発の問題でずいぶん疲れております。福島へも行
きました。避難先の人がどのような不安をもっているか、何が支援できる
かを密かに行ったところ見つかりまして、2泊3日で講演5回とテレビ(
90分番組)にでました。全国から講演の依頼があり、過酷な状況が続い
ております。若干腰を痛め、今日は座っての講演となります。

2.科学者の責任とベトナム戦争
 私は、東京下町の生まれです。東京大空襲で全滅した亀戸、その数か月
前に福島県二本松に縁故疎開をして、かろうじて生き残ることができまし
た。両親の故郷でもあり、小学校は二本松小学校で、大学は戦後になって
東京に戻り東京大学工学部の原子力工学科に入学しました。この国にまだ
原子力が一基もない1960年でした。一期生15人の一人でした。この
国の原子力開発の草分けの時期でした。この国の原発は、計画的に廃棄す
るしかない今と考えていますが、学生時代の卒業論文は、「原子炉施設の
災害防止に関する研究」、まだ原子炉が一基もないのに書いたもので、先
見の明があったかもしれません。1964年に卒業、1960年というと
二つのことを思い出します。ここにいる「じばさん三重」の方はご理解い
ただけると思いますが、日米安保条約が改定されて日米同盟が本格化した
年でした。安保条約を受け入れた時からアメリカ軍の基地を山ほど抱えて
いくことになります。その象徴が沖縄であります。
 1964年にアメリカは本格的にベトナム戦争に関わります。沖縄や横
須賀の基地から空母や爆撃機が飛び立って行きました。日本の基地なしに
は、アメリカはベトナム戦争を戦えなかった。パイナップル爆弾・ボール
爆弾・釘爆弾などたくさん使いました。親爆弾が爆発して子爆弾に、その
親爆弾がパイナップルに似ていることから「パイナップル爆弾」と呼ばれ
たそうです。それらに加えてそれまでとは違う爆弾を使用しました。それ
が枯葉剤というものでした。野山を枯らしゲリラが隠れる所を一掃しよう
と考えるものでした。結果、ベトちゃんドクちゃんなどの障害児をたくさ
んつくりました。今もその影響は消えおらず子どもたちを苦しめています。
ベトナム戦争では水爆を使う計画があって、投下訓練は沖縄の伊江島で行
われました。60年代はベトナム戦争のすさまじい惨状をテレビや新聞で
報道されていました。爆弾を開発した科学者の社会的責任が問われた時代
でした。

3.原発の開発基準6項目を提案
 1960年代は高度経済成長の時期でした。池田隼人という総理大臣が
いて、所得倍増計画、重化学工業路線を突っ走り、四日市では大気が荒ら
されることになっていきました。その時代、科学や技術や企業の社会的責
任が問われる時代に、安斎育郎は東京大学の原子力工学科を出ました。科
学者の社会的責任として原子力発電所が事故を起こせばどうなるか、とい
うことを当時も懸念されていました。日本科学者会議、科学の自主的・民
主的・総合的な発展を願う団体に加わって以来、1966年、大学を出て
2年目に原発政策の危うさに否応なく気づかされて以来、翌年の1967
年から批判を加えるようになりました。総合的な仕上げが1972年、日
本学術会議で原発問題シンポジュウムがはじめて開かれた時に、若干32
歳で基調報告を行い、この国の原発政策を点検する6項目の基準を提起し
ました。その基準に照らしてこの国の原発政策は「落第」である、との烙
印をおしました。
 その基準とは @自主的なエネルギー開発であるか否か?アメリカの対
日核技術開発を受け入れるという従属的なものであった。 A経済開発優
先か・安全開発優先か?昨今の野田政権が進める再稼働に象徴される経済
優先が当時も B軍事利用に対する歯止がしっかりかかっているか? C
内発的な地域開発と矛盾しないかどうか?豊かな地域開発を原発政策が台
無しにしないかどうか? D労働者や地域住民の安全対策が科学的な実証
されたものかどうか? E 民主的な原子力行政が保障されているかどう
か? 以上6項目を提起して、日本の原発開発計画に落第の烙印を押すと
ともに、事故が起こればどうなるかも講演しました。

4.安斎とは口をきくな!
 僕は、東大の工学部の原子力工学科の第一期生でしたが、恩師たちを名
指しで批判することもやりました。当時も原発は安全だという東大の先生
たちがいました。今もいます。わが恩師である郡甲(とこう)泰正先生も
名指しで批判しました。先生は原発が安全であることを説明するために「
飛行機に例えるならば、エンジンが止まった時に備えて気球を2つばかり、
パラシュートを5つ備え、さらに住民がすんでいる所にセーフティーネッ
トを張ったようなものだと言って、いかに原発が安全であるかを力説しま
した。僕はその時に「網が張ってあるかどうかではなくて、天から落ちて
くる飛行機を受け止められるのかどうかを実証的に示すことが必要だ。そ
んなものはあり得ない」と徹底的に批判しました。安斎育郎32歳は結構
カッコよかったのです。否、カッコよかったというより無鉄砲だったんで
すね。一種ドンキホーテだった。今の若者に「ドンキホーテ」と言っても、
「安売り屋か」と言われるので要注意。安斎育郎、国家と電力資本を敵に
回して闘ったという点ではドンキホーでした。
 翌73年になると国会に私も含めて10人の学者が呼ばれて、この国の
原発政策について意見を述べよ、ということになりました。そこでも原発
政策について批判しました。当時私は東大の工学部を出たんですが、工学
部ではなく医学部に籍を置いていました。文部教官助手、文部省放射線医
学教室の助手、国家公務員として働いていました。国から給料をいただい
ている身分で国策を審議する国権の最高機関である国会に呼び出されてい
って、国策としてすすめられている原発政策についてこっ酷く批判するわ
けだから、それは許されるはずはない。だんだん酷い目に遭わされていく
んですね。医学部研究室の中で安斎をホスという方針が決定され、研究費
が出なくなった。研究費が無くても研究は出来るのだけれど、研究を発表
するときは許可を主任教授からいただけ、となりましたが、研究を発表す
るのは私の権利だから無視して学会で発表しました。結果、安斎とは口を
きくな!となりました。一緒に並んで歩くことも、一緒に写真に写ること
もダメとなりました。今日の様に講演に行く時は、東京電力の安斎番が付
き添ってきて、一部始終を録音して主任教授に知らせことが決まっていま
した。彼は東京電力の医者で「放射線について勉強する」との口実をつけ、
安斎育郎番として右隣に座ることになっていました。後日、彼は安斎さん
が原発について次に何をするのかを報告する係りでしたと白状してくれた。
 月曜日の朝の会議で主任教授から僕の出ている週刊誌のコピーをかざし
て、大声でどなりつけるということが行われました。川崎敬三のアフタヌ
ーンショウで、科学技術庁長官の森山と二人で原発の立地(新潟県苅羽村)
について対談をとの要請が放送局からあった。ところがその後、局から長
官が安斎との対談なら出ない、と言ってきたの辞退してほしいということ
になりました。また原子力工学科15周年記念パーティーがあったがよば
れなかった。そのパーティーで来賓の一人が「東京大学原子力工学科は幾
多の有能な技術者を出したといことで高く評価できるが、一方で安斎育郎
を出したということで、功罪相半ばする」と祝辞で述べたそうです。すご
いですね、一人が肝を据えてそれなりに頑張ると、国家と喧嘩はできなく
はない、ということを示すものではないでしょうか。
 
5.学会では人気者
 予算がつかない研究だけに面白い研究ができました。理論的研究を中心
にとりくみ若手の研究者には人気がありました。したがって学会の理事の
選挙では上位で当選しました。16人中3位、その得票数に応じて学会運
営上の役割が決められました。トップは、動力炉核燃料開発事業団の安全
管理室長クロカワヨシアス、会長。2番目は東京電力のホシノマサユキさ
ん、学会に東京電力関係者がたくさんいることによります、副会長。第三
位に安斎育郎、総務理事兼事務局長。原子力工業という雑誌に「会長が推
進派で事務局長が反対派で大丈夫か?」というコメントが載りました。
学会の帰り副会長の東京電力のホシノマサユキから食事に誘われ、行った
先で「安斎君、3年ほどアメリカへ留学に行かんないかね。家族ぐるみの
旅費を東京電力が出すから」という話しでした。要は目の前から消えろと
いうことだったのです。安斎が全国で行う講演を打ち消すための費用から
すると、アメリカ留学の費用の方がはるかに少なくてすむ。今風に言えば
アカハラと言ったものです。ネグレクト・脅迫・監視・懐柔などあらゆる
嫌がらせが1973年から1986年まで続きました。実に17年間、助
手のまま据え置かれました。後に週刊朝日が「ガラスの檻に17年幽閉」
という特集を組んでくれました。
 この国に現在54基の原発があるのだけれど安斎育郎が作ったものでな
いことは確かです。約半世紀にわたって原子力を専門としてきた者として
今回のような深刻な時代を迎えたことに、たいへん申し訳ないという気持
ちでいっぱいです。この事故を真正面に据えて子や孫、次世代の子どもた
ちに安全な環境が保障されるようにとりくみたいと思っています。

6.エネルギー政策に大きな関心と行動を
 みんな今、放射能を怖がっている。低レベル放射能についての情報に飢
えている。放射線防護学の話しを期待される。安斎育郎は放射線防護学が
専門だから話してきたんだけれども、放射能を怖がっているだけでは絶対
に無くならない。原発がひとりでに増えてきたのでもなく、放射線が自己
増殖したものでもない。原発政策がこの国によって追究されてきた結果に
よって増えてきた。
 なぜ54基も増えてきたのか。その陰には日米関係や日本の政治経済体
制を支えた人々がどう画策してきたのか?エネルギー政策のあり方に関わ
る社会科の勉強をしっかりやらないと放射能の危険性の理科の勉強だけで
は、決して原発はなくならないのです。今日は、放射能の危険性を一言ふ
たこと言うかもしれませんが、それ以上深入りしない。低レベル放射能の
危険性については、専門家でも意見が分かれている。市民が深入りするよ
りも研究を注意深く見守ることがたいせつだ。何故こんなことになってし
まったのか、というこの国のあり方に思いを致し、憲法に規定された主権
者としてエネルギー政策がこれでいいのかどうか、を行動で示すことが大
切です。

7.原発と核兵器開発
 資料にある「原発をこんなに持っている国は、戦争などできない」との
認識は、大変重要なことです。原発を狙われたら今度の事のような大変な
ことになる。したがって戦争などできない。憲法九条と原発政策は表裏一
体のもの。原発を持つためには平和でなくてはならない。アメリカの9.11
同時多発テロでは貿易センタービルと国防省が攻撃されたが、3機目は原
発に向かっていたと言われています。福島の原発事故は北朝鮮の核開発が
日本を狙うものではないことを証明している。なぜなら日本を攻撃すると
き核兵器はいらない。日本海に並ぶ原発を攻撃すれば十分。通常兵器であ
るノドンかテポドンで事が足りるということです。ヒロシマ・ナガサキよ
りもっとひどいことがおこる。今回放出されたセシウムはヒロシマ原爆の
500倍。北朝鮮の核開発は、アメリカに国家として認知させることが目
的です。早とちりした国会議員が「わが国も核兵器開発をやるべきだ」と
主張しています。その議員の数や100人を超えた。わが国が保有するプ
ルトニュウムは、すでに核兵器1000発の相当するし、技術的にも高い
レベルにある。にも関わらずかろうじてそれを押し留めてきたのが「憲法
九条」とそれをふまえた「原子力基本法」。原子力を平和目的以外に使っ
てはいけないという非核三原則があってかろうじて押し留めているところ
です。憲法九条なのに何故原発か、という人がいますがそうではありませ
ん。憲法九条だから原発の問題が大切なのです。

8.原発開発と核軍拡競争
 この国がはじめて核の被害を受けたのが広島原爆です。その3日後に長
崎。核の地獄が生じました。当時世界に対して発信されていれば核兵器が
人道に反するものである、という国際世論が沸き起こったはずです。しか
しそれはしなかった。むしろ厳しく報道を禁止した。アメリカは世界から
非難されることを恐れた。その後も世界を支配するためにアメリカは核兵
器を持ち続けた。昭和21年7月1日アメリカはビギニ環礁で原爆実験を
行った。世界から報道関係者を集めて行われた。戦利品である日本の軍艦
も実験場に引き出され、原爆の威力の凄まじさを証明するものとなった。
アメリカは原爆を持つ国は10年後になるだろうと考えていたが、その目
論みは3年で外れた。ソ連がプルトニウム原爆の実験に成功した。アメリ
カは仰天した。アメリカの核による支配も終わった。アメリカは急遽、原
爆の数千倍の威力をもつ水爆の実験にのめり込んでいった。1951年に
米ソは水爆の製造に同時に成功した。1954年3月1日、アメリカはビ
ギニ環礁で最大の水爆実験を行った。その威力は第2次世界大戦で使われ
た爆薬の5回分(TNT火薬1500万t)に相当するものだった。その
7年後ソ連は17回分( TNT火薬5100万t)の水爆実験に成功した。
その衝撃波は地球を3周した。

9.アメリカの原発は潜水艦用の転用
 1950年〜1960年代は米ソ核軍備競争の真っ只中にあった。19
54年6月、ソ連はモスクワ近郊のプリンスに実用型の5000kWの原発
を建設した。アメリカは驚いた。世界の原発市場がソ連製に占められる。
アメリカはアメリカ型の実用原発の開発を迫られることになった。アメリ
カは民間企業の原発開発を禁止していたが、急遽、原子力潜水艦に使用す
る予定の原発を民生用の発電機とした。したがってアメリカの原発の安全
性は二の次、三の次になった。
 アメリカは民生用に転用した原発の危険性についての研究を行い、報告
書を作成した。大型の原発が爆発した場合、死者3400人、傷害470
00人、被害総額70億ドル(1ドル360円)とした。日本の国家予算
が当時1兆円であった。実に国家予算の2年分。アメリカは原子力損害賠
償法を制定し、民間企業のリスクを国家が肩代わりすることを決定した。
 原子力発電は、当初から国家の庇護の下でしか成立しないものでした。
その6年後1961年、日本でも原子力損害賠償法を制定し、アメリカ型
の原発開発を歩むことになりました。日本の原発開発は中曽根康弘を中心
に行われました。実業家としては読売新聞社の正力松太郎が指導的役割を
果たしました。中曽根康弘は1954年、ハーバード大学にヘンリー・キ
ッシンジャー氏に招かれ、国際問題セミナーに出席しました。中曽根は「
Atoms for piece(平和のための原子力」という考え方に心をうたれアメリ
カで開発される原子炉を日本に、との思いに到りました。

10.日本のエネルギー政策とアメリカの圧力
 1961年3月3日、中曽根康弘は原子炉築造予算を急遽補正予算で提
案しました。ビキニの水爆実験二日後のことでした。その予算額は2億3
500万円。ウラン235からとったと言われている。学者の頬を札束で
引っ叩かないと研究をやらないだろうという思いと、ビギニ事件のニュー
スが伝えられた後では、反対の世論が沸き起こり原発予算が通らないだろ
う、というアメリカからの指示を受けての補正予算となったと考えられま
す。
 実業家として先鞭をつけたのが正力松太郎、「平和のための原子力」と
いう路線を押し進めるために「原子力の平和博覧会」を各地で開催しまし
た。原子力は平和のために役立っんだという声をまとめました。正力松太
郎と中曽根康弘のふたりが原発を推進しました。もともと日本電力は水力
によってその8割がまかなわれていました。また日本には電力会社が一つ
でした。日本発送電会社、「日発」と呼ばれていました。それが地域毎に
9社に分割されました。誰がそれにしたかと言えばアメリカです。アメリ
カに依存しなければならないようにした。理由は電力供給の格差を生じさ
せるためです。関西電力には、神戸・大阪・京都という大電力消費地に対
応するための発電所建設が必要になり、大都市の近くに火力発電所の建設
となりました。国内に眠る石炭の発電が有力でしたが、アメリカによって
エネルギー政策が転換され、石油による火力発電所へとシフトさせられま
した。三井三池炭鉱が潰され、アメリカの石油メジャーによる支配を受け
入れてしまったのです。

11.原発誘致合戦と田中角栄
 原発開発の第三の立役者が田中角栄。電源開発促進税(360円/10
00kwh)を制定し、年間3500億円をもとに原発立地自治体に特別交
付金として支給しました。
地場産業に事欠く自治体が交付金目当てに原発を受け入れていきました。
福島県は年間100億円、福井県は250億円。三重県はかろうじて踏み
とどまりました。日本は民主主義の国です。自治体が原発を呼んだという
形にしたい。原発立地を推進するための住民組織が必要となります。「明
るい双葉地区をつくる会」がそれです。地元の有力者を中心に組織された
保守的な地域では、入会を拒むことができない現実がありました。関西電
力の副社長の言では、@政治的に保守が強い地区 A経済的地盤が弱い地
区 B自然科学的な地盤の強い所は、3の次ぐらいでいい「私たちの手で
原発を誘致し、明るい双葉町を作ろう」という看板が今もあります。
 この国で原発が増えてたのは、原発が細胞分裂をしたわけではありませ
ん。次の8つの要因がありました。@アメリカの対日エネルギー戦略 A
アメリカの戦略を受け入れた日本政府 B日本政府とタッグを組んだ電力
資本 C原発は安全だという許認可を与える官僚機構 D原発安全神話を
広めた御用学者 E安全神話をばら撒いたマスコミ F原発を受け入れた
地方自治体 G原発推進組織に囲い込まれた地域住民 
 以上の8つの要因が原子力村を作っていきました。安斎育郎のようなそ
れに批判加えるような者を村八分に追いやり排除しました。仲間内だけで
相互批判力の無い仲良しクラブを作り、崖っ縁へ走って行き、遂に去年、
崖から落ちたというのが直面している状況です。そういう体制を変えてい
かなければならない。大飯原発がストレステストに合格したから良いと言
って「再稼働」を許すということは、気がつけばもとの木阿弥になりかね
ない。原発再稼働を低次元で許してはならない。この国が今、問われてい
るのは、原子力開発の基本的な姿勢、僕が40年前に示した6項目の点検
基準が現在もなお問われているのです。

12.原発促進翼賛体制
 個別の原子炉の安全性を怪しげなストレステストで推し量ることは、避
けた方がいい。専門家でも何でもない福井県知事が1時間程度視察して分
かるはずがない。単なる儀式にすぎない。今なお福島の現状がどうなって
いるかも分からない。原子炉の燃料の状態さえ掴めず、事故の原因は明ら
かになるはずがない。まずは福島の事故の実態と原因を明らかにすること
から始めなければならない。
 国民総動員原発促進翼賛体制がこの国に戦後できあがってしまった。そ
してアメリカ依存のエネルギー体制がその次にあった。沖縄の問題と瓜二
つです。神格化された天皇制のもと軍部の暴走で自由も民主主義もなかっ
た戦前戦中の日本。江戸時代から明治時代に変わるとき箇条のご誓文とい
うものがあった。これからの日本の進め方を示すもので、それを素直に読
むと民主的で科学的で国際的なんだけれども、それを基にして作られたと
いう大日本帝国憲法というのは、天皇を中心とした絶対主義的な憲法が構
築されました。第一条は「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」で
はじまり、第三条で「天皇、これを神聖にして犯すべからず」天皇は神と
して扱われました。そういう憲法の下で天皇を批判することが出来なくな
ってしまった。国会が開かれていない時は、条約を結ぶ権限もあるし、戦
争をはじめる権限もあった。また戒厳令を敷く権限もあった。絶対的な権
力を握った。日本人は天皇陛下の御為に命を捧げる臣民と位置づけられた。

13.憲法九条と自衛隊
 自由も民主主義もなかった。しかしその憲法下でも大正時代にはデモク
ラシーが芽生えた。天皇が人間的な「性格」であったから。それが昭和に
入ると天皇の個人的な性格は別として、徹底的に利用された。御前会議で
は戦争の道を歩み続け、戦後を迎えた。360万の日本人が死んだ。ソ連
では2千万が死んでいる。日本だけがひどい目に合ったと言うわけではな
い。ドイツ・イタリアは600万規模で死んでいる。世界では、5千万人
規模で死んでいる。その戦争の果てに日本は、1947年に憲法を作った。
当初にマッカアサー三原則を作り、日本が再び戦争を出来ないように指示
をした。平和憲法が作られて二年後にアメリカがぐらつく。中国に共産党
が支配する中華人民共和国ができて、その背後にはソビエト連邦がつくと
いうことになった。その国が1949年に核兵器を持った。共産主義勢力
が太平洋方面に出っ張ってくることを阻止する防波堤として日本を位置づ
けなければならなくなった。その翌年、1950年に朝鮮戦争が始まった。
まさに共産主義勢力と資本主義勢力が衝突した。アメリカはわずか3年で
日本に再軍備を迫ることになった。困ったのは吉田茂、先の憲法制定国会
では「憲法九条の2項にある『前項の目的達成するために、陸海空の武力
はこれを保持しない』とあるが自衛のための武力まで否定するものではな
い、と考えるがどうか?」という質問に対して、吉田は「これまでの歴史
を紐解けば、『自衛』を理由に戦争をはじめた例が数多ある。したがって
『自衛』のための戦争を認めれば、全ての戦争を認めることになるから、
自衛ためも含めて一切の戦力は、これを保持しないのは当然だ」と答弁し
た。吉田茂はカッコよかった。しかしそれから3年後アメリカから「再軍
備せよ」と言われて困ちゃった。いきなり自衛隊を作ることができず、1
950年に警察予備隊をつくり、1952年に保安隊と改名した。さらに
1954年ビギニ水爆実験があった年に「自衛隊」と変えた。戦力無き部
隊などと訳のわからない言い訳をしました。その時から日本国憲法の解釈
が混乱することになります。

14.戦後の国の形を規定してきた日米安保
 1957年、岸は「自衛のためなら核兵器も持って良い」と言い出した。
1990年になると、なんと「自衛のためならば核兵器も使って良い」と
言いだすんですね。みなさん!自衛のために核兵器を使ったらどうなるの
でしょうか。外国で使ったら自衛にならないし、日本で核兵器を使ったら、
ますます自衛にならないではありませんか。そんなめちゃくちゃなことを
言って、将来核兵器を持ちたいという気分を保守の政権は引きずりながら
今日に至って、以前として不透明なまま政権が続いている状況です。
 講和条約に2種類ある。すべての国と結ぶ全面講和条約とアメリカとだ
け結ぶ片面講和条約がありました。サンフランシスコ片面講和条約と時を
同じくして日米安全保障条約が結ばれて、アメリカの軍事基地を引き受け
て今でも百以上の基地がこの国にはあります。その75%が沖縄にありま
す。ベトナム戦争ではB43水爆の投下訓練を沖縄でしていた。水爆を使
う計画があった。立命館の平和ミュージアムには、投下訓練で用いられた
長さ3メートルの模擬弾が展示されています。金閣寺の隣、歩いて10分
です。ぜひ寄ってください。わずか3メートル程の爆弾なのに、長崎原爆
の70倍の威力があった。9000m上空から落とし、地上600m爆発
させるのが最も効果が大きいのです。その位置まで落とすのに42秒かか
ります。ベトナム戦争では性能のいい高射砲によって爆撃機が撃ち落され
るということから、低空で侵入し目標地点で上昇し、パラシュートで落と
す。伊江島で繰り返し投下訓練をしていたそうです。誤って畑に落とされ
た模擬弾を農民が拾って、回りまわって今、展示されています。珍しいも
のです、ぜひ見てください。
 タイコンデロガ号という航空母艦をご存知ですか。1965年12月5
日の午後2時、沖縄洋上をベトナムから横須賀に向かって進んでいたとこ
ろ、甲板のA42攻撃機がB43水爆を搭載されたまま落下し4,300b
の海底に沈んだ。それが明らかになったのが1970年代の終わり、宇野
宗佑が外務大臣だったときでした。その事故によって水爆を積んだ船が日
本に出入りしていたことが明らかになりました。

15.憲法を超える日米同盟
 戦後の日本の形を規定してきたのが日米安保でした。国の形とは国体の
ことです。今の若者には国体というと、国民体育大会としか思い当たらな
い。戦前を生きた人には、国と体は「天皇を中心とした」の国体です。戦
後の国体は何かと言えば日本国憲法です。あり方を規定しているのは日本
国憲法、その憲法を超えるのが日米同盟。アメリカと結んだ軍事同盟、憲
法上は自由であるはずの土地の所有が制限されるのが米軍基地。裁判でも
争われましたが、今、この国を規定するのが憲法と日米安保です。
原発問題もアメリカとの関係に深く根ざしています。安保条約は単に軍事
同盟だけではありません。政治同盟でもあり、経済同盟でもあります。そ
れが日本のあり方を規定しています。
 アメリカは実に戦略的な国家で、日本を支配するためには、エネルギー
と食料を支配すればよいと考えました。日本人の食料の自給率は38%、
アメリカ依存型の食料自給体制になっています。日本人の食習慣も変えさ
せてしまった。安斎育郎はアメリカ化してなくて、今も米や魚や貝を中心
に生活しています。若者はケンタッキーフライドチキンを食べても何の抵
抗もありません。戦争が終わったこと頃、日本人は魚や貝を食べていた。
その日本人に鶏や豚や牛を食べさせる必要がありました。アメリカ中部は
気候温暖な地域でトウモロコシや麦がたくさん収穫できるところ。アメリ
カ1国では、とても食い切れないほど穫れる地帯です。輸出産業として展
開する必要がありました。米を食べる習慣からどのようにすればよいか。
日本中にクッキングカーを走らせ、肉やパンを食べることを宣伝して回っ
た。結果、だんだん抵抗感がなくなっていった。鶏や豚の餌としては、飼
料のトウモロコシ、今も大きなタンカーに積まれ日本に向かっている。エ
ネルギーも水力発電を中心としていたものをアメリカ型の火力発電にさせ
た。さらに石油から原子力へと導かれていった。 アメリカはとても戦略
的です。アメリカは化粧品を売りつけるために美人コンテストで日本人を
優勝させたりもする。アメリカの化粧品を使えば世界一美人になれる、と
宣伝した。プロ野球も一郎がなぜアメリカで野球をしなければならないの
か。優れた選手をアメリカに獲られてしまう。なぜなのか。それはアメリ
カに高い放映権料を払って、同時中継しているNHKを見れば明らかです。

16.なせ原発は廃炉か?
 原子力工学科を卒業している僕が、なぜ廃炉しなければならないと考え
ているか、というと2つ理由があります。一つは今回の事故のようにその
被害の大きさ。だれも真剣に計算しないが、数十兆円。地域社会が丸ごと
避難しなければならなくなります。地域社会が消える被害の経済的損失は
、計算不可能な事態となります。2つ目は事故を起こさなければいいのか、
というと、原子炉の中心にある太さ3センチの燃料棒。放射能を出す核燃
料とその下にたまる高濃度放射能核廃棄物。再処理工場に回して、ウラン
と核のゴミを分離します。低レベル廃棄物と高レベル廃棄物に分ける。高
レベル廃棄物は極めて危険だからガラスに溶かしボンベに入れて地中深く
に埋めて数万年おかなければなりません。フィンランドでは、鉱山の跡地
に埋めているのだけれども、そこで働く人に聞くと10万年後が心配だそ
うです。危険なものを埋めたということをどのように伝えればよいかです。
十万年後の人にここが危険な場所であることをどのように伝えればよいか。
伝える方法があるのか。ムンクの叫びの絵を貼っておくのもという意見も
ありますが、人類の10万年前といえばネアンデルタール人の時代です。
1000年前の人はどうかといえば紫式部の時代。電気もない時代の人で
す。「糞の役にもたたない核のゴミ」をどのように伝えるか、という話し
を福島でしたら、「糞は役に立つ」という声があがりました。危険性を伝
える技術も覚束ないものは廃棄すべきだ、というのが二つ目の考えです。

17.む す び
 それなら原発に代わるものは何があるのか、といえば原発から舵を切っ
て別のものにする、という覚悟があれば技術的に必ず道は開けます。ドイ
ツは明確に方針を変えて脱原発を決定しました。風力発電は風まかせでは
ないか、という人がいますが。風があるときに発電をおこない、水を水素
と酸素に分解して、貯めておくことも一つです。水素燃料電池で発電をお
こなう、ハイブリッド発電というアイデアも出ています。明確に舵をきれ
ばできる問題です。市場ができるから今まで関心を持たなかった企業が参
入してくる。ONKYOという小さなモーターを製造する会社が小さな流
れでも発電できる小型モーターを開発しました。小規模低落発電です。中
途半端が一番いけないモンジュがそれです。1995年に大事故を起こし
てそのまま、2010年に再開したらまた故障。モンジュという名をつけ
た時、安斎はお釈迦様に失礼だと言いました。その途端にまたオシャカに
なった。一日の維持費に6000万円かかっている。なぜ電力会社が再稼
働をいうかと言えば、原発は稼働していなくても維持費に一日何千万円も
管理にお金がかかるかれです。その圧力に負けて再稼働を民主党は決定し
ました。民主主義はどうなっているのか。今こそ日本国憲法で保障された
民主主義に立ち帰えって国民主権を国民の側がしっかりその役割を果たす
時です。九条の会よっかいちがこの時期に今回のテーマで記念のつどいを
もったことは、誠に意義深く時期を得たものです。 大幅に時間を超えた
ことをお詫びしながら話しを終えます。どうも有難うございました。

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